聖蹟桜ヶ丘出身者にとって『耳をすませば』というアニメは特別な存在である。
その『耳をすませば』の翻案として書かれた2篇の中編小説「憧れの世界」「私、高校には行かない。」と書き下ろしエッセイ2篇を加えたものが本書だ。

まえがき的なエッセイ「〈青春懺悔の記〉いかにファンでなかったか?」では、著者が『耳をすませば』をなぜリアルタイムでは見なかったのか(高校一年生ならではの自意識)、その後どのようにファンになったのかが語られる。サントラが絶賛されてるけどそんなにいいのか。
執筆の順序としてはまず「私、高校には行かない。」が書かれ、次に「憧れの世界」が書かれたということなのだが、本書での掲載順は逆になっている。
まず表題作「憧れの世界」。主人公は受験を控えた中学三年生だが本ばかり読んでいる。図書館で借りた『24人のビリー・ミリガン』下巻に図書カードが挟まっていたので、手続きせずに借りてきてしまったことに気づく。そこに記された利用者番号に目をつけたことがその後の展開につながっていく。
そこで図書館員である父親から図書カードとプライバシー問題についてのレクチャーが挟まる。
その後出会う少年が読んでいるのが『完全自殺マニュアル』だったり、オウム事件への言及があったりして、「1995年」ということを強調した作りになっている。
次に載っている「私、高校には行かない。」でも主人公は中学生だが、ファンタジー小説好きで、自分でもお話を書こうとしている。
父親によるプライバシー問題についてのレクチャーが入るところは共通しているが、多摩ニュータウンという舞台から「平成狸合戦ぽんぽこ」への言及も入ったりしていく。
こちらは未完に終わったようで、最後に「創作ノート」が掲載されている。
巻末のエッセイではアニメ映画を小説にするうえでの難しさなど、「私、高校には行かない」の失敗の原因を考察。。そしてそれを踏まえてどのように「憧れの世界」が書かれたか。さらには小説を書くのであれば「翻案」というのがオススメだという話に。
同じ話をもとに二回も小説を書いちゃうところがそもそも青木淳悟ならではという気がするし、その翻案のしかたも一筋縄ではいかない。そしてそれをこういう形で本にするというのが「代わりに読む人」という版元の個性だなと思った。
なお、本書を書くにあたって著者はアニメの舞台のモデルとなった聖蹟桜ヶ丘を訪れていない(それでも京王本線と京王相模原線、聖蹟桜ヶ丘といわゆる「多摩ニュータウン」の違いはちゃんと認識して書かれているなとは思いました)。
で、執筆後に初めて訪れた際の記録が『「耳すま」聖地巡礼』である。こちらも合わせてどうぞ。

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