そもそも「いまポストモダン」なのかという疑問はあった(いまというか4年前だけど)。
ミチコ・カクタニによる「ポスト・トゥルース状況をもたらした諸悪の根源はポストモダニズムにある」という批判にどのように応答するのかというのが起点となった特集ということのようである。

まずリオタールからポストモダンについて見直す。そこまで戻るのか。『ポストモダンの条件』は現在の知的状況についての調査報告書みたいなものだったという。むかし卒論資料として読んだけどまったく覚えてない。読み直すか……。とりあえず「大きな物語」の終焉というのはここから来ている。
続いてポストモダンの現在への影響ということで、「現代的実在論」(メイヤスーなどの「思弁的実在論」からニック・ランドなどの「加速主義」まで)、さらに日本における東浩紀、そしてドゥーギンについて。このへん、正直あんまり興味がない。
「ポストモダン」のイデオローグの一人だったフレデリック・ジェイムソンのインタヴューを挟んで80年代ポストモダンの見直しなど。いま大学の哲学科ではフーコー、ドゥルーズ、デリダなどは「ポストモダン」から離れて「哲学者」として研究する方向なのだそうだ。
「エクリチュール・フェミニン」という話がちょっと興味深い。そもそも論理的なエクリチュールというものが男性的なものなのでそうじゃない書き方を模索するというもの。で合ってる? いまフェミニズム本の読書会をやってる人がいて、超読みにくいと毎回ボヤいているのだが、ひょっとしてそういう意図で書かれた本だったりするのだろうか(そんないいもんじゃなさそうな気もするけど)。
特に問題になっている分野として歴史学というのがある。言語的転回ということで、まあ要するに歴史学における客観的事実とされるものも、言葉を通して理解しているのだという理屈。これが「ポスト・トゥルース」の論拠になってしまっている。なんだけど、実際の歴史学者は権威的な「客観的事実」を疑問視しつつ、ではどこまでは確実といえるのかというすり合わせを行っている(という話は松沢『歴史学はこう考える』にも出てくる)。
というか「◯◯的転回」というのがたくさん出てきて把握しきれない……。
ポストモダニズムと倫理みたいなコーナーではホロコーストやレヴィナスの話が多く出てくる。
『ショア』のクロード・ランズマンによる「表象不可能性」という話、アドルノの「アウシュヴィッツの後で詩を書くことは野蛮である」等々。
ナチスとホロコーストが絶対的な悪なのは確かなんだが、そこを絶対視しすぎることがいまのシオニズムに繋がってる側面はあると思う。なんていうか、同じくらいの絶対的な悪が存在すると言うことすら許さないみたいな。
興味の持てるところと持てないところの差が大きくて読み通すのにちょっと時間がかかってしまった。
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